きらきら歴史館

東小沢の今昔3(激動の昭和時代)

昔、「東小沢中学校」があった。

昭和20年(1945)、日本の敗戦により第二次世界大戦は終了しました。
2年後の22年(1947)3月に、新国家を目指す「教育基本法・学校教育法」が交付され、六・三制が発足。この東小沢においても、4月には国民学校が「東小沢村立東小沢小学校」となり、新制中学校「東小沢中学校」が小学校校舎を借りて開校しました。

28年(1948),同じ敷地に中学校の新校舎が建設されました。
30年(1950)2月、それまで久慈郡に属し常陸太田の生活圏にあった東小沢村は、日立市と合併を果たし、「日立市立東小沢小学校」と名称を変えました。同時に31年3月31日、中学校は久慈中学校に吸収され閉校となり、わずか8年で姿を消すことになったわけです。

平成22年12月、倉庫の整理をしていたところ、この中学校を偲ばせる貴重な歴史資料が発見されました。ほこりにまみれた額(縦100×横180センチメートル)で、それは、中学校新築を祝った寄贈(日本画)作品です。

昭和20年(1945)、日本の敗戦により第二次世界大戦は終了しました。
2年後の22年(1947)3月に、新国家を目指す「教育基本法・学校教育法」が交付され、六・三制が発足。この東小沢においても、4月には国民学校が「東小沢村立東小沢小学校」となり、新制中学校「東小沢中学校」が小学校校舎を借りて開校しました。

28年(1948),同じ敷地に中学校の新校舎が建設されました。
30年(1950)2月、それまで久慈郡に属し常陸太田の生活圏にあった東小沢村は、日立市と合併を果たし、「日立市立東小沢小学校」と名称を変えました。同時に31年3月31日、中学校は久慈中学校に吸収され閉校となり、わずか8年で姿を消すことになったわけです。

平成22年12月、倉庫の整理をしていたところ、この中学校を偲ばせる貴重な歴史資料が発見されました。ほこりにまみれた額(縦100×横180センチメートル)で、それは、中学校新築を祝った寄贈(日本画)作品です。

平成23年95歳を迎える東小沢小学校と比べ、あまりにも短命で、すでに校舎は跡形も無く、地域の方々の記憶の中だけに思い出として残っている、幻に近い存在である「東小沢中学校」が現実の姿となり現れたことに、大変驚いています。
昭和28年(1953)3月に、中学校を卒業された本校の大先輩でもあり、現在スクールサポーターとしてお手伝いをいただいている片野さん(72歳)が、当時を語ってくれました。

「中学校といっても小学校と同居しての授業であったので、体育は校庭を避けて堤防を越え、竹瓦橋近くの久慈川原を利用し授業をした。卒業記念修学旅行は、日光であった。部活動は陸上に入部しがんばった。」
この寄贈作品については、覚えがないということでした。

ひとつ謎が残ります。それは、寄贈者名がはっきりとしているのに、作者名が記載されていないことです。しかし、この謎を解く鍵は二つあります。一つは作品に押されている落款(らっかん)。もうひとつが、14人の寄贈者名です。

この寄贈作品はだれが制作したのか、作者名がはっきりと分かった場合には、是非お知らせしたいと思っています。

東小沢の今昔2(激動の昭和時代)

約65年間続いた激動の昭和時代は、終戦の昭和20年(1945)を境にして、前期と後期とに大きく分けることができます。20世紀は「戦争の世紀」と呼ばれるように、この昭和(前期)は、子ども達もまた、世界大戦に巻き込まれ翻弄(ほんろう)された激動の時代でした。

大正15年(1926)4月1日に入学されたという本校の大先輩でもあり、平成22年現在91歳の田口捨雄さんが、先日、(自家用車を運転し)来校され、小学生当時の様子を語ってくれましたので紹介します。

入学式は、父親の付き添いが普通であったとのこと。教室で式が終わると、近くの村社吉田神社に参拝し、社殿で記念写真を撮って解散しました。服装は、タテ縞(しま)模様かあるいは絣(かすり)模様の着物を着て、駒下駄(こまげた)に足袋(たび)という姿でした。うわばきは、わらぞうりを利用したとのことでした。

遠足は、1・2年はハナレ山(久慈町)、3・4年は泉が森(水木町)、5・6年は「13歳」をお祝いして村松(東海村)となっていました。

夏休み前になると、久慈川で水泳会が行われ、昭和8年ころに富永校長の腹の上に乗って、無邪気にはだかで遊んでいたのが、今も忘れることのできない思い出になっているとのことです。

秋には毎年、旧制太田中学校(現太田一高)の秋季大運動会に、6年生が招待され、那珂と久慈郡の各小学校が400メートルリレーで競い、昭和5年には選手として出場。東小沢は6等に入賞し、とても感激したとのことです。

高等科では農業の実習があり、神田の実習田で、代掻(しろか)きをはじめ、田植え、稲刈りなどの米つくりをしました。運動では毎年、坂本部会(久慈、東小沢、坂本、世矢、西小沢)の体育祭があり、春は陸上競技、秋はドッチボール大会が開催されました。生徒数の多い久慈が優勝していましたが、しかし山崎先生がいた頃は、一番少ない生徒数で、上位の成績をとっていたとのことです。

田口さんが東小沢で学んでいた頃はまだ戦争の影響はなく、卒業できたとのことでした。

昭和16年日本がアメリカの真珠湾を急襲攻撃し、太平洋戦争に突入してからは、戦時一色となり、20年の敗戦までは、子ども達も勤労動員に駆り出され、勉強どころではなかったそうです。

その頃、20代の田口さんは、兵隊として満州に渡り、砲弾の中を戦っていたとのことでした。